生きてるよー。余裕っち。
生きてるよー。余裕っち。
Twitter とかブログに重心を移してしまったので、もうここをチラシの裏にすることも無さそうです。64DD の記憶を残すため、万が一いつか何かまとまったコンテンツを載せたくなったときのため、スペースの保守は続けます。ランドネット20回忌が来る頃に、きっとまたお会いしましょう。ごきげんよう。
おれだけが知っている秘密を一つ、明かすべき時が来た。ずばり、なんとなく64DDを応援したりしてなかったりしていたこのサイト、本日でオフィシャルには10周年を迎えたのだ。更新回数は10年間で100回に満たないかもしれず、端的には保守アフター保守。それでも、人生のピークあるいは下り坂の始まりに開設し、この下り坂人生を共に生きてきた盟友、あるいは墓標であるからして手放さないのだ。
振り返ってつくづく思うのは、ある国の酔っ払いの言葉にもあるのだが「まっすぐな道をまっすぐ歩くのは難しい」ということである。まあその酔っ払いはおれのことなのだが。ほんと人生って何がどう転ぶか分かったもんじゃない。カオスでフラクタルでインストゥルメンタルだ。でも実は、基本的な価値観というか思考回路というかはまっすぐどころか鉛のように重く硬く凝固していて、それがその場その場で見つけた服をかわるがわる着ているに過ぎない気もする。きっと状況さえ与えられれば、幼児に逆戻りすることだってありうるだろう。鉛は若くもないし老いてもないし、10年とこの一瞬をわざわざ区別するようなものではない。そう考えると、別にまっすぐ歩かなくてもそれはそれでいいんじゃないかなと。自分も他人も気付かないし追求しようともしない部分に真実があっても、ぜんぜん構わないんじゃないかなと。
まあ、そもそもドタバタてんてこ舞いなので「振り返って」なんていないんだけどね。そして完全に文章が千鳥足だが、飲んでもいないのだ。アルコールは 1mg たりとも入っていないのだ。常に脳内アルコールが分泌されているのだからしょうがない。脳内ビタミンを分泌できるようになるしかない。なにせ、ご飯をおかずにご飯を食べるような精神生活である。いわば脳内脚気。脚気とアルコールのダブルパンチじゃ千鳥足にもなろう。
・・・さて真面目な話をすると、COOL ONLINE のサービス終了に伴い、ちょうど半年前に FC2 WEB に移転したのだ。あの頃のように、選ぶほど多くの無料 web スペース業者はもういない。個人がやる所謂「ホームページ」の時代が終わったことを実感する。ブログまたは wiki にするとか、SNS で活動するとかいろいろオプションはありえたが、結局情報の質が同じならば、つまり資源を浪費するノイズに過ぎなかったりオリジナル度が低くイナゴの一匹に過ぎなかったりするのならば、そんなの要らないよね。だから、あえて古い体制にしがみつくのも悪くないと思っている。そろそろ日付が変わる。挨拶もせずに締めることにしよう。次の更新は何年後かな?
近年の節約志向の影響を受け、「第三のビール」を提供する居酒屋も出始めたらしい。飲み会をしていて、なぜか他のメンバーがぽちぽち帰っていってしまい、気付けばアルコールをまったく飲めない先輩と二人きりになっている。テーブルには「第三のビール」のジョッキが、我々のためにたくさん置かれている。「いいよ、おれは食うだけだから。遠慮なく飲みな」と笑顔で薦められ、ええええええ!こんな頼まなくてもいいよ、ちょっと待ってよ、、、と絶望して目を覚ます。吐き気のするような悪夢だ。たくさん薦められたことではなく、「普通のビール」じゃなかったことが。
まあ「悪夢」は言いすぎだとしても、ここまで節約志向が来ると病的だと思う。ハレの場くらい、小銭にこだわらずに過ごしたいじゃないか。だいたいの予算から店を選んで、「好きなの頼め」でいいじゃないか。「メリーゴーランドは高いからジェットコースターにしよう」なんてバカがどこにいる。綿飴の原価を問いただし、値切るバカがどこにいる。ましてや、「第三のビールだから一杯当たりこれだけお安くなります。カロリーも云々、プリン体も云々・・・」なんてあまりにも馬鹿げている。こんな狭苦しくガツガツした国に誰がした。こんな、誰も得しないことへ皆のエネルギーが注がれる国に誰がした。
勝手にエキサイティングしてみたものの、もちろん大いに偏見に基づく嫌悪感でしかない。後にも先にも一度だけ、悪酔いして吐いたのが「第三のビール」だったから!
最高に酷くてカッコ悪いまとめ方。
ものは試し、トップページ一番下のニコ動ブックマークをやめて、個別記事に分割してみる。だんだん、なんでもかんでも個別記事にしてログに流してしまう方向に。それなら素直にブログにしろよ、と突っ込まれるところだが、決して改めないのがアナログ人間。というか単に年寄りくさいだけ。年寄りらしく、もうさっさと寝るぽ。
ニコ動ブックマーク ・・・たぶん2007年ごろのブックマーク。トップページから分離してみるテスト。
よそよそしさの正体
二次元は大いに好きだけど、あくまでも絵や文や映像の「鑑賞」のみにとどまる。萌え系の人としてテレビ取材されたり、「○○たんの××を××××したい!」的なスレで盛り上がったりしてる行動派(?)の方々とは、どこかずれてると感じてた。ヒロインが画面に向かって話しかけてくる型式(主人公視点)のゲームさえ、なんとなく敬遠していた。二次元の要素を全面的は受け入れず、どこか距離を置いていたわけだ。「まあ、好みだよね」程度に感じていたが、下の発言を読んでハッとさせられた。
238 名前: シュモクザメ(山形県)[sage] 投稿日:2010/05/04(火) 15:42:51.12 ID:baqv+Kxr
オタクって二次元キャラに恋する人と
二次元キャラを傍観する人の二種類いるよね
百合厨は後者
要するに、二次元に接する姿勢に違いがあり、自分は傍観する人のほうだということ。三次元の代替の恋愛対象とすることではなく、(「微笑ましい」「愛くるしい」「美しい」などに近い)「かわいい!」を味わうことを楽しんでいたらしいのだ。だから、最前線の行動派の人たちに対し、どこか距離を感じていたわけ。もう少し分かりやすく掘り下げた記事があったのでこちらも参考に。
作品を好む場合、別にみんながみんなその中に出てくるキャラに好意を寄せてもらいたいわけではないんですよね。むしろ、寄せてほしくないという人も多いかもしれません。(中略)作品の魅力の中に、キャラ単体の魅力は確かに多分にありますが、キャラと他のキャラの関係があるから「萌える」と言う場合のほうが多いかもしれません。ハルヒにキョンがいる。なぎさにほのかがいる。のび太にドラえもんがいる。
まさしくここの著者や、引用されている姐さん方と同じ姿勢なのだ。参加するのではなく神の目でありたいし、キャラ同士のやり取りに魅力を感じることは多いし、なぎさはほのかの嫁だ。
それにしても、つまりおれは二次元さえ恋愛対象にできないらしい。二次元にさえ好意を寄せられたいと思っていないらしい。恋愛感情を、どこかに落っことしてきちゃったのだろうか。だとしたら、ゲームでリハビリでもして取り戻すべきなのかもしれない。
東京メンタルヘルスアカデミーフレンドスペース「雑談力 誰とでも無理なく話せる」明日香出版社
会社員の地位に間一髪で駆け込み乗車したスレスレ人間のおれは、真人間には理解できない悩みを持っているのだ。
「キャバクラが苦痛」
どうにもトークが続かず、途切れるたび嬢が次々チェンジしていく。沈黙はもちろん辛いし、この暗示的な屈辱感も辛い。最初は「すげえや、もう4人斬りだよ!」と自嘲する余裕があるものの、一時間後にはやさぐれて、嬢と目も合わせず、ひたすら氷をバリバリ噛んで過ごすようになる。
こんなんじゃ、人事考課も下がるというもの。なんとかせねばなるまい。そこで手に取ったのがこの一冊。曰く、「たかが雑談」である。深い議論は必要ないのだから気楽に、基本は相手の話をよく聞くこと。相手の食い付きを伺いながら、オープン・クエスチョン(開かれた質問)により話題を広げていき、また相手が答えやすいような定番の話題を活用し、そのためには普段から情報収集を心がけ、テレビの司会者の話題選びを研究し、・・・。
やってられるか!そっちが客に合わせろってんだ。そもそも「単にそういう仕事をやりたい女の子」という、いい加減な採用・配属方針が良くない。人材の特性をしっかり見極め、組織のカラーを作っていくことが組織強化のために必要なのだ。
そういう方針で強化された店を、「特化キャバクラ」とでも名付けようか。つまりメイド喫茶やその派生ジャンルのように、テーマを決めて人材を集めるのである。例えば「貧乏苦学生キャバクラ」とか「家出少女キャバクラ」とか。あとで説明するが、趣味で括ることはより効果的だろう。「歴女キャバクラ」に「ライダーキャバクラ」「こなた系キャバクラ」「パチンコキャバクラ」など。
特化キャバクラの本質は、計画的にトークの守備範囲を偏らせることでしかない。属性や趣味で括ることで、店の得意な話題を作り売り物にする。「貧乏苦学生キャバクラ」なら苦労話や貧乏レシピを存分に語れる。「歴女キャバクラ」なら好きな武将や好きな合戦や好きな大飢饉について存分に語れる。店にとっては他店と差別化できるメリットがあり、またそのニッチな話題を目当てに全国から客が来るようになる可能性だってある。ただ、遠くから客を呼び寄せるためには、嬢と客がそれだけ熱く語れることが条件であり、そういう意味で属性より趣味での括りが強力だ。
さらに言ってしまえば、トークが売り物であるゆえ、極端な話メニューや内装にこだわる必要すらない。また客が他の話題を望むときは、従来のキャバクラと何も変わりなく振舞える。強化によって失うものはないのだ。人材探しが至難という点を除けばこれといったデメリットもなく、非常にメリットの大きい強化策だといえよう。
おれなら、「理系院生キャバクラ」(某サイトで見かけたネタ)とか「文学少女キャバクラ」、「レトロゲー女子キャバクラ」あたりがあったら、往復が飛行機でも通う。んで「これは投資だ」と威張りながらじゃんじゃん金をつぎ込むに違いない。絶対やめてね、そういうの。
藤沢 晃治『「分かりやすい表現」の技術 〜意図を正しく伝えるための16のルール〜』講談社ブルーバックス
これは実に痛快。思わず「あるあるwww」と唸っちゃうような分かりにくい案内標識、取扱説明書、プレゼン資料などを、どこが「ルール違反」なのかどうすれば改善するか解説しながら、バッサバッサと斬っていく。言われればカンタンなことなのだけど、みんな作ってるときには気づかないのだ。だから、ルールを確かめながらよく注意して作ることで、誰でも本当はちゃんとしたものを作ることができる。
ただ、本書への苦言というよりは現実への苛立ちとして、「16のルール」は多すぎだ。常に頭の片隅に置いておけばうまくいく、という運用方法が不可能だ。結局こういう、考慮不足や注意不足による不具合への再発防止策って、「あれはダメこれもダメ」式の膨張し続ける憂鬱なチェックリストになっちゃうのよね。それこそが「ノウハウ」と呼ばれるものなのかもしれないけど、エッセンシャルで普遍的な方法がないというのは非常に苛立たしい。美しくない。
エッセンスの普及ができず雑多なノウハウに頼るしかない問題なら、必要になるのは専門家だ。道路標識や取扱説明書は、行政やメーカーが自前でやるでなく、専門業者があって然るべきなのだろう。などと思ったら、どちらも複数の専門業者が居て、業界団体までしっかりあるのか。一般社団法人 日本標識工業会、社団法人 全国道路標識・標示業協会、一般財団法人テクニカルコミュニケーター協会。あるのに、このざま・・・。仕事しろ!!
筒井 康隆「アホの壁」新潮新書
大外れ。筒井株大暴落。筒井康隆の短編は好きだが、その筒井が新書を書いた。ちょっと内容が想像付かない。しかもタイトルはベストセラーのパロディー。(原作を知らないせいもあるが)もっと想像付かない。目次を眺めてみると、全項目に「アホ」がついている。さっぱり想像付かない。計りかねて迷っていたが「蛍の光」が鳴り始めたので、えいやで購入。いざ読んでみると、なんだこりゃ・・・。
内容はきわめてシンプルだ。アホなものをアホだなあと言うだけ。例えば「言っちゃいけない」を意識しすぎるあまり、ここぞという場面でそれを言ってしまう現象とか、何度も死に掛けたのにまたあえて危険な状況を選んでしまう人とか、くだらないきっかけで起こった戦争の例とか、そういうのを分別なく全部ひっくるめ、「アホ」のレッテルを貼りまくる。そして「世の中にはこんなアホがあります。心理学用語で言うなら○○症ですな」で満足して終わり。薄っぺらいとか以前の問題で、何がしたいのか分からん。深刻に酷い。なんだこりゃ。
まあ確かに、取り上げられている個々のネタは輝いていて、筒井らしさが感じられるのだが・・・。でも変に真面目を気取らず、やはり風刺小説の形で笑い飛ばしてほしかった。せっかくの美味しいネタを、ろくに料理もせず雑に並べるような暴挙に出るとは、どうしちゃったの、先生。
ナンシー・マーティン/戸田 早紀 訳「億万長者の殺し方教えます 〜ブラックバード姉妹の事件簿〜」早川イソラ文庫
のどかなフィラデルフィアの上流社会を舞台に、(もと)上流階級の個性的な三姉妹が活躍するミステリー。ちょっとワルっぽい三姉妹がお茶会をしている表紙に引かれて購入。表紙のイメージを裏切らない世界観だったので良かった。まあ、表紙とタイトルから「富豪の財産のおこぼれを狙って三姉妹がドタバタ奮闘する」みたいなのを想像してたから、ストーリーはちょっと違ったけど。
上流社会の独特な雰囲気が面白い。ホームパーティーや変わったお宝に情熱を傾ける、個性的な人々。そして中でも際立っているのがブラックバード姉妹というわけだ。ゴージャスな服装が似合う長女リビーは、絵画の修復に凝りだしたり幼い息子たちを引き連れて景観破壊への抗議デモを演じてみたりと暴走気味。ワイルドでおてんばな三女エマは、邪魔な車を追い抜きざま中指を突き立ててみせたり姉ノラの古臭いドレスをジョキジョキと改造してしまったりとアグレッシブ。語り手でもある次女ノラは、しっかり者だがよく気絶する苦労人。そして現れるナイト、チンピラで謎も多いが頼れる色男マイケル。ノラはマイケルの助けを得たり時にクラクラしながら、事件を解き明かしていく。
「ちょっとワルっぽい」にも通ずるのかもしれないけど、姉妹愛というか女の友情というか、そういうの好きだ。そろって男運が無く、金運にも恵まれない所謂「負け犬」系の三人が集まって、ボロいテーブルを囲む。そしてほのぼのとした感じで「あんな男のこと、もう忘れちゃえばいいのに」とか「また、私たち元通りになっちゃったね」みたいな遠慮ない会話をする。すごく好き。雰囲気で買って、雰囲気を読んで楽しんで、とそういう一冊だった。